気づきによる自己変容に役立つように『奇跡講座 下 受講生のためのワークブック』の一部を抜粋・つなげさせて頂きました。自習学習のお供に。
奇跡講座(ACIM)は、聖なる言葉の音叉のようなものです。
ぜひ本書を手に取り、原文をお読みください^^
読むだけで、自然とエネルギーが調います。
中には理解しがたい文や、動揺したり、
どうしても強い拒否感が湧き上がることもあるでしょう。
それは奇跡講座(ACIM)を学ぶ誰もが経験する通過儀礼のようなものです。
不調に慣れ切っていると、それが正常になります。
奇跡講座(ACIM)が不調を癒し始めると、アンバランスで取っていた均衡がリバランスされていくプロセスで強い不快感を感じるのです。
それを通り過ぎ、本来の自然な状態に戻るととてもラクになります。
心のセルフ整体と言ってもいいかもしれません^^
【レッスン186】世界の救済は私にかかっている
これは真の謙虚さの想念であり、自分に与えられた機能(はたらき)だけしか自分のものとしない。この想念により、あなたは自分に任された役目を受け入れるようになる。
私たちに求められているのは、自らの役割を純粋な謙虚さをもって受け入れることであり、自分たちがその役にふさわしいことを、自己欺瞞からくる傲慢さによって否定しないことだけである。私たちが為すべく与えられたのであれば、私たちにはそれをなすだけの力がある。私たちの心は、私たちをよく知っている存在が任命した役割を担うのに完璧にふさわしい。
今日の主題概念は、その意味がわからないうちはひどく深刻なものに思えるかもしれない。そこで言われているのは、あなたの父が依然としてあなたを覚えていて、わが子であるあなたに完璧な信頼を差し出しているということである。
偽りが真理だと証明しようとするあなたの計画は自分自身に牢獄をもたらしてきたが、そこから解放される道が一つあり、それが唯一の道である。自分の計画のかわりに、自分が作り出さなかった計画を受け入れることである。傲慢な者は、言葉に固執する。しかし謙虚な者は、自らの本性について、あるいは何をすべきかについて教える声を自由に聞くことができる。
傲慢さは、あなた自身についての実在しない自分像(イメージ)を作り出す。あなたは、あなたの自分像のように弱くはない。
聖霊が話すとき、あなたの自分像は自らの土台が崩れるのと感じて戦慄し、自分の知らない脅威に向かって攻撃しようとする。それが消え去るままにしておきなさい。
そうして私たちは平安を見出す。すべての幻想は、自分で自分のために何か別の機能(はたらき)を作り出せるという異常な信念の上に成り立っているのだから、私たちは今、神に与えられた機能(はたらき)を受け入れる。
神の子が作り出すかに見えるすべての形象(気分や感情含む)は彼の本性にはいかなる影響も及ぼさない。
自分に与えられた機能(はたらき)を受け入れるとき、こうした実質のない形象は去り、あなたの心は曇りなく穏やかになるだろう。あなたの作り出した形象は、はかなく不確かであいまいな、互いに矛盾する複数のゴールを生起させた。このようなゴールに向い、恒常的に努力し、精力を傾け、気力を集中できる者がいるだろうか。
それとは美しい対照をなして、太陽が朝には必ず戻ってきて夜を去らせるがごとくに、あなたに真に与えられた機能(はたらき)は少しの曖昧さもなくはっきりと示されている。
神の声が指示するとおりに行いなさい。
愛は与えずにはいられず、神の名において与えられるものは、形態の世界の中で最も役に立つ形をとるからである。
それらは無形性そのものから生じる。赦しは愛の地上的な形で在り、愛は天国においてそうである通り、形を持たない。しかし、ここで必要とされるものは、必要とされる形でここに与えられる。無形性があなたに取り戻されたとき、愛はあなたにとってはるかに大きなものを意味することになるが、それでもあなたはこの形において、ここにいても自分の機能(はたらき)を全うすることができる。この世界の救済は赦すことのできるあなたにかかっている。それがここにおけるあなたの機能(はたらき)である。
セラピストの一言
奇跡講座のテキストを読み始めてから、半年以上かな?
私はずっと抵抗し続けていました。
そのときの私の奇跡講座に対する姿勢は、
「教えてもらおう」「ここから学ぼう」というものではなく
俯瞰的にこれを読んで「理解してやろう」というようなかんじでした。
でも奇跡講座は心の奥底に隠しておいた何かをグサグサ突いてきますから、
読み進めるのは、とても苦しく、何度も休憩を挟む必要がありました。
奇跡講座が嫌でたまらなかったけれど、
だからこそ「これは正しい」「背を向けて逃げちゃダメ」とも感じていました。
そして、いよいよ疲れ果てたとき、ふと思ったんです。
「奇跡講座は私が愛だと言っている。なぜ抵抗しているんだろう?」
「抵抗している私は誰だろう?」
「私が拒んでいるのは愛だろうか?」
「なぜ愛を受け入れたくないんだろう?」
「‥(こんなに苦しいんだからとりあえず)受け入れてみようか。」
完全な降参です。
その瞬間、不思議なことが起きました。
まるで水道管の詰まりが取れたかのように
頭のてっぺんからまっすぐにトロ~っと何かが流れ込んだんです。
「愛が通ったんだ」と思いました。
奇跡講座のいう謙虚さは、
こうした自我の降参と愛の受け入れを指しているように思います。
愛以外の何かになろうとしていた傲慢さ。
その以前はむしろ「自分は神と同じ愛である」という奇跡講座のほうが
傲慢な印象がありましたが、今では奇跡講座の優しさがよくわかります。

